?三重にゆかりのある人物 編?

 

伝統木版画家 徳力富吉郎は、生涯京都に住みながら、各地で多くの版画を残しています。 富吉郎は、版画を作るとき、必ず現地に赴きスケッチをしたといいます。
伊勢での滞在中に差し入れられた赤福餅。それが縁となり、十数年に渡る版画「伊勢だより」の制作が始まりました。
今回はその中から三重にゆかりの人物を特集します。
版画や資料から垣間見える、富吉郎の旅の足跡に想いを馳せながら彼の目に映った「伊勢路」を今あらためて巡ってみませんか。
主催/山徳記念館
後援/伊勢市教育委員会
協力/株式会社まつ九、津市教育委員会、鳥羽市教育委員会、南伊勢町教育委員会、松浦武四郎記念館(松阪)、本居宣長記念館(松阪)、山田奉行所記念館(伊勢)、四天王寺(津)、寂照寺(伊勢)、常安寺(鳥羽)、株式会社赤福

?直筆のスケッチブック(16㎝×6㎝)
?ハコビ(8㎝×25㎝)
絵具やのりを版木に置くための道具で、大きさは色々。
?刷毛(8㎝×25㎝)
ハコビで版木の上に置いた墨や絵具を、延ばすための道具。(大きい面積に使用)
?手刷毛(8㎝×25㎝)
ハコビで版木の上に置いた墨や絵具を、延ばすための道具。(小さい面積に使用)
?バレン(8㎝×25㎝)
絵具を置いた版木と、紙を密着させるための道具。
?徳力富吉郎作 上野城版画(16㎝×6㎝)
伊賀 上野城に展示されているものと同じもの。(限定100枚のうちの12枚目)
上野城は、もともとは今回展示中の藤堂高虎の築城で、徳力富吉郎が版画にしたものを特別にお借りしております。
<所蔵:岡森明彦氏>
?伊勢だより 直筆原画スケッチ(6㎝×18㎝)
徳力富吉郎が伊勢だよりを制作するにあたって描いたスケッチ。スケッチのため、一部実際の伊勢だよりと色合いなど異なるものもある。

松浦武四郎  ~北海道の名付け親~

1818年~1888年 伊勢国一志郡須川村(今の松阪市小野江町)に生まれる。
幕末から明治維新に活躍。旅行家・探検家・作家出版者・学者としての顔を持ち、数々の業績を残す。6度にわたる蝦夷地(北海道)の探査を通じ、アイヌの人々とも交流を深め、アイヌの地位向上のために行動をおこした人でもある。その中でも「北海道の名付け親」として人々の記憶に刻み込まれており、今もアイヌの人々に愛されている。
毎年2月の最終日曜日に武四郎まつりが行われており、来年が生誕200年にあたる。
松阪市に松浦武四郎記念館がある。
<松浦武四郎記念館パンフレットより>

?武四郎の日記(15㎝×6㎝)
探検家である松浦武四郎は、北海道をはじめとする探索の際に、日記を記しております。その一部を展示しております。
?久摺日誌 (8㎝×25㎝)
凡例 万延紀元暮秋 源弘しるす
発行年 文久元年(1861)武四郎44歳
?後方羊蹄日誌(8㎝×25㎝)
凡例 安政六年己未暮春 源の弘しるす
発行年 文久元年(1861)武四郎44歳
?夕張日誌(8㎝×25㎝)
凡例 万延元庚申晩冬 源弘しるす
発行年 文久2年(1862)武四郎45歳
?納沙布日誌 (8㎝×25㎝)
凡例 万延元庚申晩冬 源弘誌
発行年 文久3年(1863)武四郎46歳
?西蝦夷日誌(8㎝×25㎝)
凡例 文久三癸亥の初冬 源の弘誌
発行年 慶応元年(1865)武四郎48歳
?蝦夷行程記(4㎝×20㎝)
江戸時代後期
?蝦夷行程記 上(25㎝×8㎝)
?蝦夷行程記 下(25㎝×8㎝)



山田奉行所 ~大岡裁きはここから始まった~

徳川幕府が開かれた慶長八年(1603)に開設され、神宮の警衛とご遷宮造営奉行、 神宮領および幕府領の公事、裁判、伊勢湾周辺の警備、密輸取り締まりなどを業務と して、幕末まで存続する。第18代奉行が大岡能登守忠相(のちの大岡越前守)であり、正徳2年から6年までの4年間山田奉行所に勤務した。江戸での活躍の前身である。
伊勢市御薗に山田奉行所に記念館がある。
<山田奉行所記念館パンフレットより>

?虎丸錦絵(写真パネルA3横)
?錦絵 大岡越前(写真パネルA3縦)
?山田奉行所関係の書記(25㎝×8㎝)
?奉行所同心使用の弁当箱(25㎝×8㎝)
?火事場笠(25㎝×8㎝)
?御座船虎丸の縮小模(25㎝×8㎝)
虎丸縮小模型(実物模型借用品)
?大岡能登守忠相(後の大岡越前守忠助)(26㎝×6㎝)
正徳2年(1712年)山田奉行就任。在職中には、奉行支配の幕領と紀州 徳川家領の間での係争がしばしば発生しており、山田(現・伊勢市)と 松坂(現・松阪市)との境界を巡る訴訟では、紀州藩領の松坂に有利だっ た前例に従わずに公正に裁いたという。
?御座舟虎丸の勇姿(26㎝×6㎝)
寛永11年(1634)7月、将軍家光は天機奉仕の名目で大兵を擁して上洛します。この時、山田奉行花房志摩守は、組頭7人を随伴、与力6人、水主同心75人を引率して御座船虎丸、孔雀丸、関船小鷲丸、乙矢丸、小鳥丸を三河吉田へ回漕、舳艫堂々と将軍家光を熱田まで送ったという記録を素材として描かれたものです。
?御座船と山田奉行所(26㎝×6㎝)
戦国時代、江戸時代の水軍では、船隊を指揮する大将の乗る軍船を御座船といいました。江戸時代になると、安宅船にかわって、関船が御座船として利用されるようになり、矢倉形式の上部構造に、将軍や大名の矢形を設けました。山田奉行所には、虎丸と呼ぶ68艇立ての御座船が配置されていました。


河村瑞賢 ~商人をこえた日本の企業家~

1618年~1699年 伊勢国度会郡南島町東宮に生まれる。
江戸前期の商人で海運、土木事業家。瑞賢の功績は、全国的である。
幕命を受けておこなった西、東の両航路の開拓により商品経済を飛躍的に発達させ、江戸経済繁栄の基礎をになう。
大阪淀川水系の工事にあたり、近畿地方の治水工事に大貢献をなし、近世大阪の経済興隆にはかりしれないほどの大きな功績をなした。その偉業により元禄11年(1698)旗本にとりたてられた。来年が生誕400年にあたる。
<ブリタニカ国際大百科事典より>

?南島町 瑞賢銅像写真(パネルA2縦)
?瑞賢版木(8cm×25cm)
?東廻り・西廻り海運図(パネルA3横)
河村瑞賢は寛文11年(1671年)に、阿武隈川河口の荒浜から本州沿いに南下、房総半島を 迂回し伊豆半島の下田へ入り、西南風を待って江戸に廻米し、新たな航路である外海江戸廻り の東廻り航路を開いた。さらに翌年には、奥羽山脈を隔てた最上川の水運を利用し、河口の 酒田で海船に積み換えて日本海沿岸から瀬戸内海を廻り、紀伊半島を迂回して伊豆半島の下田 に至り、西南風を待って江戸に廻米し、西廻海運を確立した。また、途中の寄港地を定めて 入港税免除や水先案内船の設置も行うことで海運の発展に尽力した。 (8㎝×33.5㎝)


藤堂高虎 ~戦(いくさ)、城造り、都市計画の達人~

1556年~1630年 近江国、藤堂村の土豪・藤堂虎高の次男に生まれる。
身長6尺2寸(約190センチ) 体重30貫 (約110キロ)
当時としては恵まれた身体を武器に各地で戦功を上げ、知勇兼備の将であり、 戦国時代の三大築城名人の一人に数えられる。外様大名でありながら、徳川十七将に 数えられる。家康亡きあとも、2代将軍秀忠、3代将軍家光から厚い信頼を受けていた。
高虎が没してその身を清めた際の記録には、(六尺二寸の御遺骸にはあいたところのないほどに戦場傷があって数えきれないほどであった。右手の薬指と小指は切れ爪が 無かった。左手の中指も一寸ほど短く、左足の親指も爪が無く、左右の手の残った指の腹には、ふしくれだったまめがいくつもあった)豊臣家、そして徳川家で戦場を 駆け回った満身創痍の体だったことが、記録に残されている。
<ウィキぺディアより>

?藤堂高虎肖像画 津市四天王寺所蔵(パネルA2縦)
?津城下図(寛永期)江戸時代の初め頃の津の町の様子 (7.5㎝×19㎝)
現在の津の中心部の街並みの基礎は高虎が作った。海の近くにあった、伊勢街道を城の近くに通し、町を城下町であると同時に伊勢参りの人々で賑わう宿場町として発展させた。
?津城版木(8cm×25cm)


慶光院遷宮上人 ~式年遷宮を支えた尼僧たちのものがたり~

慶光院は今から500年もの昔、129年間途絶えていた式年遷宮を復興させた。
慶光院は臨済宗に属する尼寺だが、本山を持たない単立寺院で、読経は行われず、 ひたすら神宮式年遷宮の無事と朝廷や高位な方々の祈祷につとめる。
初世・守悦から幕末まで十五代にわたり継承された。三世・清順は十年間諸国をめぐり朝廷、幕府を動かし、外宮でめでたく正遷宮が復興。四世・周養は織田信長、豊臣秀吉の信を得て、五世・周清は徳川家康から寄進を得て、以後は遷宮費用すべてが、 徳川幕府から支出されることとなる。
<神宮博物館ホームページより>

?慶光院五世・周清上人画像
?織田信長黒印状
?豊臣秀吉の朱印状
?徳川家康朱印状
?遷宮費用の寄進のために全国大会を行脚した尼僧たちは、、信長、秀吉、家康の信頼を 得て式年遷宮を復興させた。『遷宮上人』と呼ばれ今なお敬愛されている。
磯町の玉雲寺では毎年5月上旬の日曜日に歴代慶光院主を顕彰する法要が行われている。
?慶光院五世・周清上人
周清が院主であった慶長8年(1603年)と、 寛永6年(1629年)・慶安2年(1649年)の 正遷宮では江戸幕府から遷宮朱印状が慶光院に 下されるなど神宮と密接な関係にあったという。


月僊  ~寺の復興と社会福祉事業に尽くした僧侶~

1741年~1809年 名古屋城下蛯屋町の味噌屋、丹家八左衛門の二男として生まれる。
7歳で得度浄土宗の僧となる。桜井雪館に画を学び、円山応挙に師事。知恩院の貫主に 懇願され、伊勢国宇治山田の寂照寺を復興するために入山。画僧としての名声があったため、画を描いた報酬を復興財源にあてる。1804年宇治浦田大火では、130軒焼失した際に 被災者全員に米一俵、金一両を見舞金として贈る。山田奉行所に託した「月僊金」を 窮民救済にあて、現在の社会福祉に尽くした。この「月僊金」の制度は明治になるまで 存続し、仏の道、社会福祉活動を実践した僧侶だった。
<寂照寺作成資料、ウィキぺディアより>

?伊勢市寂照寺月僊像(パネルA2縦)
?東方朔(展示の軸の名前)(8㎝×2.5㎝)
?虎(8㎝×2.5㎝)
?画僧 月僊の作品(掛け軸)(33.5㎝×6.5㎝)
月僊の作品は、山水・人物を得意とし、人物の形影が寂寥としていることを特長とする。
仏門修行の傍ら、雲谷派に連なり「雪舟十二代画裔」と自称した桜井雪館に画を学ぶ。その後、円山応挙に師事して写実的画風の感化を受けた。また、与謝蕪村の影響も受け、さらに諸派に 学んで独自の画風を確立した。


九鬼嘉隆  ~信長のもとで大活躍した水軍武将~

1542年~1600年 安土桃山時代の武将、大名。九鬼水軍を率いた水軍武将であり、九鬼氏の第8代当主である。志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長や豊臣秀吉 のお抱え水軍として活躍し、志摩国を支配して3万5000石の禄を得た。後に関ヶ原の戦 いで、家名を存続させるため、嘉隆は西軍に、息子の守隆は東軍に分かれて戦う。戦いが東軍の勝利に終わると、嘉隆は答志島に逃れた。九鬼家の行く末を案じた家臣の豊田五郎右衛門の勧めを受け入れ、和具の洞仙庵で自害した。享年59歳。
<ウィキぺディアより>

?九鬼嘉隆肖像画 鳥羽市常安寺所蔵(パネルA2縦)
?嘉隆版木(2㎝×8㎝)
?九鬼産業 胡麻油
徳川についた息子の守隆の子孫が、江戸時代に商人となる。
1886年に8代目九鬼紋七(九鬼紋十郎)が九鬼産業の前身となる精油業を はじめ、九鬼家の基礎を築き、「四日市精油所」を設立する。
「星印のゴマ油」として業務用ゴマ油の生産や品質ではトップレベルである。(15㎝×6㎝)
?九鬼産業の歴史(パネル25㎝×36㎝)
・創業当時の四日市製油㈱(現:九鬼産業)
創業当時の四日市製油㈱は菜種油をメインに扱っておりました。現在の九鬼産業は第2工場で、創業当時の工場は残っておりません。
・大正時代の九鬼産業
1918年に四日市市尾上町に新設した第二工場です。
現在の九鬼産業はこの工場が続いてきたものです。
写真右側、入口には星印マークが付いております。
・昭和初期の製品
当時は、加工がしやすく材料が安い木箱が主流でした。
・昭和30年代
外箱が木箱からダンボールに変わりました。
・昭和60年代以降の製品
油だけでなく、食品胡麻(いりごま・すりごま)やネリ胡麻も製造しており、多くの胡麻製品が製造されています。


本居宣長  ~日本の歴史を紐解いた仕事人~

1730年~1801年 伊勢国松坂(今の三重県松阪市)に木綿仲買商である小津家の次男として生まれる。
江戸時代の国学者・文献学者・医師。国学の発展に多大な貢献をし、国学の四(し)大人(うし)の一人とされる。(荷田春満・賀茂真淵・平田篤胤)
小津家を継ぐが商売に関心がなく医師を志し京都へ遊学する。松坂へ帰った宣長は医師を開業するかたわら「源氏物語」や日古典を講義し、約35年を費やして当時の 「古事記」研究の集大成である、注釈書「古事記伝」44巻を著した。
末裔には日本の映画監督・脚本家の小津安二郎がいる。
<ウィキぺディアより>

?本居宣長 61歳自画像(パネルA2縦)
?前山の花見の歌 本居春庭筆・本居宣長加筆(6㎝×18㎝)
天明2年1782年3月2日、伊勢の前山での花見の際に詠んだ歌を集めた歌集。
?七種鈴(宣長遺愛の鈴を模した松阪万古製の鈴)
八角駅鈴(1㎝×4㎝)
茄子型古鈴(1㎝×4㎝)
駅鈴(1㎝×4㎝)
八角鉄鈴(1㎝×4㎝)
養老古鈴(1㎝×4㎝)
人面鈴(1㎝×4㎝)
三鈷鈴(1㎝×4㎝)
?本居宣長 神社絵馬(1㎝×4㎝)
?「来ても見よ 杉にさくらの花咲きて  神代もきかぬ 神垣の春」(6×8)
伊勢だよりにも取り上げられた、「宿り木の桜」 を詠んだ本居宣長の句が、鈴屋集に収められております。
?「鈴屋集」第3巻 版本(2.5㎝×8㎝)
本居宣長の歌文集